Mag-log in「大学を辞めたくないなら、俺の手の中に落ちてこい」 幼い頃から私を見知っていたと言う9歳年上の男が、ある日突然そんな言葉と共に私の生活を一変させた。 ―― 母の入院費用捻出のため、せっかく入った大学を中退するしかない、と思っていた村陰 花々里(むらかげ かがり)のもとへ、母のことをよく知っているという御神本 頼綱(みきもと よりつな)が現れて言った。 「大学を辞めたくないなら、俺の手の中に落ちてこい。助けてやる」 なんでも彼は、母が昔勤めていた産婦人科の跡取り息子だという。 学費の援助などの代わりに、彼が出してきた条件は――。 クスッと笑えるラブコメ(全32章) (改稿版 2020/08/14〜2021/08/19)
view more熱々の鰻をアルミホイルごとそっとまな板に移して包みを解くと、火傷しないよう気を付けながら1.5センチ幅に切って、添付されていたタレをたっぷり掛ける。 ――んー、美味しそうっ! 手についたタレを舐めたら、すっごく愛しい味がして、生唾がじわりと口の中にあふれた。 あ、やばいっ。 またきた! 振り返りざま、椅子の背もたれをギュッと握って手指に力を込めながら、 「よ、りつ、なっ、そ……このラッ、プ、切っ、てくれる?」 私たちの迫力に押されて呆然と立ち尽くす頼綱《よりつな》に、痛みでフルフル震える指でラップの細長い箱を指し示したら、頼綱が慌てて動いて。 そうしてラップの箱を手に、「どっ、どのくらい?」とか。 ――頼綱さん、まさかそれ、切る長さを聞いていらっしゃいます? 一口サイズの手毬《てまり》おむすびを作りたいので、「20セ、ンチくら、いっ」と声を絞り出すように言ったら、頼綱ってば、私の様子にオロオロしてか、今度はなかなかラップの端が掴めなくてまごまごするの。 「お貸しくださいまし」 とうとう見かねたらしい八千代さんに、ラップを箱ごと奪われてしまった。 結局、一口サイズの鰻乗せ手毬おむすびは、痛みの合間を縫うようにして頑張った私と、始終テキパキと動く八千代さん2人だけの共同作業で完成してしまいました。 「頼綱《よりつな》坊っちゃま、これからは父親になられるんですから、お家でも花々里《かがり》さんを支えられるよう、もう少し家事も覚えてくださいましね?」 ――わたくしも、いつまで坊っちゃまのお世話を焼けるか分からないのでございますから。 ぽつんと付け加えるように落とされた言葉に、私は胸がキューッと切なくなった。 と、同時。 「イタタタ……」 またしてもお腹が痛くなって、机に手を付いて立ち止まる。 あ、やばい。 陣痛の間隔、10分切ってるかも? 八千代さんに指示されて、お弁当箱につめた手毬《てまり》おむすびを、風呂敷で包んでいる頼綱を横目に……。 「よ、り、綱っ……お願っ、そろそろ、病《びょぉ》……い、んっ」 ギュッと手に力を入れながら、涙目で彼を振り仰いだ。 頼綱はそんな私をサッとお姫様抱っこの要領で抱き上げると、今包んだばかりのおむすびを手に、「行って
「ただいま。――おや? やけにいい香りがしてるけど2人で何をしてるのかね?」 八千代さんが買ってきてくださった鰻《うなぎ》の蒲焼《かばや》きを、フッ素加工されたトースタープレートにアルミホイルを敷いて載せると、お酒を少量振ってふわっと包み込む。 それをオーブントースターに入れてスイッチを3分程回したところで、頼綱《よりつな》がキッチンに顔を出した。 久々の鰻にテンション駄々上がりで、頼綱の帰宅に気付けなかった私は、その気まずさを誤魔化すように「今ね、戦飯《いくさめし》を用意してるのよ♥」と、私の手元を覗き込んでくる頼綱に微笑んだ。 「いくさめし……?」 キョトンとする頼綱に、「ほら、頼綱にも手伝ってもらうんだから。手、洗ってきて?」と視線で彼を洗面所へ促《うなが》す。 八千代さんはそんな私達の横、大葉を細かく千切りにして、適量の白胡麻とともにボールに取り分けた炊き立てのご飯に混ぜ込んでいらして。 私、鰻の蒲焼きしか頼まなかったのに、さすがです、八千代さん! 大葉と胡麻の香りがふんわり鼻腔《びこう》をくすぐって、私は「美味しそう!」ってニンマリする。 「手、洗ってきたよ」 頼綱《よりつな》がキッチンに戻ってきたところで、丁度トースターがチン!と鳴って、私はワクワクしながら扉を開けた。 「イタタタ……」 そこでお腹がキューッと痛くなって、思わずテーブルに手を付いて動きを止める。 テーブルについた指の先が白くなっちゃうくらい手指に力が入った。 ……痛いっ。 でも鰻《うなぎ》、早くトースターから出さないと余熱で焦げちゃうっ。 「よ、りつなっ、お願、いっ。私……の代わりに、ほかほかのウナ、ギをっ」 息を吐きながら痛みを逃《のが》すようにして言ったら、頼綱が「花々里《かがり》、陣痛の間隔は?」と聞いてくる。 「んー、20分……切っ、たくらい、かなっ」 言ったら「それ、こんな悠長に飯を作ってる場合じゃないよね?」って……そんなの分かってるっ! ――だから急いで頑張ってるのよぅ! 「でもっ! これ、絶対いる、の! 頼綱がウ、ナギ禁止令出、した時っ、陣痛の……合間にっ、鰻入りの手毬《てまり》お、むすびっ、ムシャムシャす、るって……私、決め、てたんだ、もん!」 痛みを吐息で散らしながら言ったら、頼
自分の提案にイエスともノーとも答えない私に、頼綱《よりつな》がキョトンとして、 「花々里《かがり》、それは――」 どう取ればいい?と言いたげな頼綱に、 「ほらっ。遅刻しちゃうよ? その時が来たらちゃんといの一番に頼綱に連絡するから。スパッと気持ちを切り替えて行ってらっしゃい!」 土間に降りて、頼綱の背中をグイグイ押して外に押し出すと、尚も不満そうに私を振り返ってくる彼の頬にチュッとキスを落として、もう1度トドメのように「行ってらっしゃい」と告げる。 そうして、このお話はこれでおしまい、とばかりに手を振って、半ば強引に彼を仕事場へ送り出した。 *** 時折お腹が張って、微かにキューッと生理痛のような痛みを感じるようになった頃、私は八千代さんにお願いしてお買い物を頼んだ。 八千代さんが出掛けている間に、早炊き設定で炊飯器のスイッチを入れてキッチンの椅子に腰掛ける。 「よいしょ」 お腹が大きいあまり、このところ無意識に出るようになってしまった掛け声《ことば》に思わず苦笑して。 ちょっと動いたら暑くなって、羽織っていた透かし編みのカーディガンを椅子に掛けて、ほぉっと一息ついた。 炊き立てほかほかのご飯が出来たら、これでおにぎりを作るぞー!と思ったら自然頬がほころんで。 おにぎりを彩る具も、ちゃんと決めてあるの。 ふふっ。楽しみっ! 「イタタタ……っ」 そこでキューッとお腹が張る痛みに背中をさすって。だけどまだ我慢出来ないほどじゃない。 絶対とは言えないけれど、私、初産だし、きっとあと数時間は猶予《ゆうよ》があると思うの。 学校で学んだ知識が、案外いま冷静に自分の状況を見つめられる指針になって助かるなぁとか思いつつ。 痛みが和らぐとすぐ、気持ちが炊飯器と、八千代さんにお願いしたお買い物にさらわれる。 おにぎりの具材の定番はシャケや梅干しやおかか。 だけど今回私が八千代さんにお願いしたのはそれらじゃないの。 *** 「花々里《かがり》さん、ただいま戻りました」 玄関が開く音がして、八千代さんの声が聞こえてきた。 私は椅子からノシッと立ち上がると、台所から顔を覗かせる。 「八千代さん、お帰りなさい。すみません、暑い中、わがまま言ってしまって」 眉根を寄せたら、
予定日を5日ほど過ぎた、快晴予報の朝。 その頃にはさすがに仕事も産休に入っていて、家でのんびり過ごさせてもらっていたのだけれど、私ってば夏の暑さにもお腹の圧迫にも負けず、食い意地が元気に健在で。 食べ悪阻《つわり》こそ妊娠中期の半ば頃には落ち着いたけれど、食欲は衰えなかったから我ながら凄いって思った。 結果、太り過ぎないよう毎日のウォーキングが日課になって。 最近では夏の射るような日差しを避けて、早朝にお散歩するようにしていたの。 薄暗い日の出前とは言え、歩けばそれなりに汗をかいて。 それを流したくてシャワーを浴びるために服を脱いだら下着を薄らと汚す〝おしるし〟に気が付いた。 「わわわ、ついに!?」って思いながらも、冷静にシャワーを浴びて。 髪をタオルドライしながら頼綱《よりつな》に、「おしるしが来たからそろそろかも知れない」って話したの。 私がそう言った途端、ソワソワしながら「何かあったらすぐに連絡するんだよっ? いいね!? 分かったね!?」って、目に見えて狼狽《うろた》える頼綱に、いつも仕事で赤ちゃんを取り上げていても、いざ我が子のこととなるとただの心配性のお父さんになっちゃうんだなぁって可笑しくなった。 「そんなに心配しなくても大丈夫だよ?」 ってクスクス笑いながら言ったら、 「俺が心配してるのは……子供のことももちろんだけど、1番は出産を控えた花々里《かがり》のことだからね?」 って眉根を寄せられた。 こんな時まで私をドキドキさせてくれるとかっ。 うちの旦那様は溺愛が過ぎて困ります! そう思いつつも照れながら「ありがとう」って言おうとしたら、頼綱《よりつな》が「今夜の当直は杉本先生だけど、もし日付がズレたらその限りではないと言うのが気になって仕方がないんだよ」とつぶやいて。 「えっ!? ちょっと待って、そっちなの!?」 1番に心配しているって言ってくれたから、私の身体のことかと思いきや、「それは言うまでもないことだろう?」らしい。 頼綱としては、私が臨月に入った辺りから、お産は院長先生や浅田先生には任せたくないという思いが強くなっていたみたいで。 「杉本先生が当直じゃない日にキミが産気づいたら……その時は誰がなんと言おうと僕が取り上げる。それだけは了承しておいておくれね
「花々里《かがり》、卒業おめでとう」 卒業式で着付けてもらった袴姿《はかますがた》のまま頼綱《よりつな》にギュッと抱きしめられて、これまでの苦労が走馬灯のように頭の中を駆け巡った私は、その感情に押し流されてその場に崩折《くずお》れてしまいそうになる。 それを頼綱にしがみついて必死に堪えて。 小町《こまち》ちゃんたち同級生から遅れること丸2年。 みんなが文学部の3年生になる頃、私はようやく大学の編入試験に合格して、頼綱の母校である夏ヶ
私が文学部を辞めて少しした頃、お母さんが無事退院。当初の予定通り御神本邸《みきもとてい》の一角を占める離れに移り住んできた。 同じ敷地内にいるんだし、何よりまだお母さん自身リハビリが必要な病み上がりの身体。 せめて身体が完全に回復するまでは母屋《おもや》で一緒に暮らそう?って頼綱《よりつな》と一緒に誘ったんだけど。 お母さんは「新婚さんを邪魔するなんて野暮なことはしたくないし、何より気ままにひとり暮らしを満喫したいのよ」って首を縦に振ってくれなかった。 そればかりか、私や頼綱や八千代さんご夫妻が寝起きしている母屋と、木々などを挟んで隔絶されているところが気楽でいいのって笑うの
まずは望月《もちづき》に見立てた石《ダイヤ》がキラリと光る、婚約指輪から。 リングの内側をそっと覗くと、注文通り「Y to K」の刻印。 それから何故か今日の日付。 ――あれ? ここって入籍日を入れるって話だったような? そう思った私だったけれど、入籍日がなかなか決まらないから納品に間に合わなくて、受取日を入れることにしたのかな?とか思って。 購入日だって、考えてみたらこの指輪を手にした記念日だもんね。 指輪なんてもらったことがないからよく分からないけれど、そんなこともあるのかしら、とか考える。 それよりも問題なのは、頼綱《よりつな》が店員さんとコソコソ
昨日は食事後に徒歩で頼綱《よりつな》に大学までのルートを案内してもらった。 「あまみや」から帰宅するなり歩きのルートが知りたいとごねた私に、頼綱がもう一度車を出そうとして。 私はそれを押し留めるように「歩きの!」って言い張った。 頼綱からはさんざん「車でも助手席に乗っていれば分かるだろう?」ってぶつくさ言われたけれど「分かるわけないじゃない」とバッサリ切り捨ててやったの。 助手席に乗っていたら景色が違うもの。 頼綱にはきっと理解不